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紀元前579年、晋と楚は宋の地で会盟を行い、晋楚両方に親交のあった宋の華元の仲介により、両者が共に宋と盟約を結ぶ形で停戦した(『史記宋微子世家』にはこの出来事を紀元前589年(宋共公元年)としているが、『左伝』には紀元前579年(魯成公十一年)としている。『史記』の元年は九年の誤りと見られる)。 しかし紀元前577年、晋の盟下にある鄭が楚の盟下にある許を討ったので楚の共王は許を救うために鄭を討った。翌年、楚によって討たれた鄭は楚に領土を割譲して和睦し、楚の盟下に置かれることになった。晋の詞はは元々自分に従っていた鄭の背信を正すために、衛・斉・魯などを従えて鄭を討つことにした。鄭は楚に救援を求めたので、晋と楚は再び戦うことになった。これが?陵の戦いである。 泓水の戦い(おうすいのたたかい、中国語 泓水之戰 Hongshu? zh? zhan)は、中国春秋時代の紀元前638年に宋の襄公と楚の成王が泓水(現河南省柘城)にて激突した戦い。楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。 覇者であった斉の桓公と宋の襄公とは密接な協力関係にあり、襄公は桓公亡き後の斉国内の騒動を瞬く間に鎮圧したことに自信を得て、 会盟を主宰して覇者への道を歩き始めた。 これを快く思わなかったのが楚の成王である。当時の楚の国力は宋を遥かに凌いでおり、小国に過ぎない宋が天下の主導権を握ろうとしたことに対して反発して襄公の主宰する会盟に将軍の子玉を送った。諸国の君主が次々と会盟の地に到着する中、楚からやってきたのは将軍にすぎない子玉である。諸侯は口々に楚王の無礼をなじったが、襄公はそれらをなだめて会盟をおこなった。 会盟が始まり、襄公が盟主の座についているのを見た子玉は面白くなく、襄公に恥をかかせてやろうと思い立った。すなわち、突如として襄公を拉致し、周辺の邑を荒らしまわったのである。宋の兵は襄公が人質に取られているので手も足も出せない。見かねた諸侯が子玉をなだめ、なんとか襄公を取り返すことが出来た。襄公の盟主としての面目は丸潰れである。気のすんだ子玉は意気揚々と楚に引き上げていった。このときの子玉の所業を成王はいたく気に入ったらしく、のちに子玉は楚の令尹になる。 宋の国民は怒りに染まり、成王の無礼を正すために楚に挑戦することになった。当時の楚は天下最強であり、宋は中程度の国に過ぎない。まともに戦っても勝てる見込みはなかったが、あえて勝負を挑んだのは頑迷と言われる宋の国民性のなせるわざか(宋は殷王朝の末裔であり、その誇りもあったのではないかとも言われている)。更にさきの会盟以来襄公の威信は失墜しており、相手が楚軍であるということもあって、援軍を得られる見込みもなかった。 楚軍は楚の首都郢を発し、襄公はこれを受けて決戦の地に宋国内の泓水のほとりを選んだ。 やがて楚軍が現れ、川を渡り始めると宋の宰相の子魚は「まともに戦えば勝ち目はありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」と進言した。しかし襄公は「君子は人が困っているときに更に困らせるようなことはしないものだ」と言ってこれを退けた。子魚は「ああ、わが君はいまだに戦いを知らない」と嘆いたという。果たして、川を渡りきった楚軍は陣を完成し、宋軍を散々に打ち破り、襄公自身もこのとき太股に矢傷を負った。このことから、敵に対する無用の情け、分不相応な情けことを宋襄の仁と呼ぶようになった。 ただし、この当時の宋と楚の両国は、殷王朝以来の古例を重んじる国家として著名で、襄公が楚軍の渡河を待ってから双方が陣立てを行ったのも、その古例に則っただけにすぎないとの説もある。 泓水の戦いで受けた矢傷がもとで、襄公はこの2年後に死ぬ。宋軍が惨敗を喫し、天下の覇権は楚に移ったかに見えた。実際この時期は楚を盟主として仰ごうとする小国があとを絶たなかった。 しかし、楚の栄光も長くは続かなかった。19年の放浪を経て晋に重耳が帰国して文公となり、城濮の戦いで楚軍を散々に打ち破ると、令尹・子玉は敗戦の責任を問われて自殺した。さらに成王も太子の商臣に殺されてしまうのである。城濮の戦い(じょうぼくのたたかい、中国語 城濮之戰 Chengpu zh? zhan)は中国春秋時代の紀元前632年に晋と楚とが、城濮(現山東省西部の濮県の南)にて激突した戦い。晋の文公が覇者としての地位を確立した戦いである。 紀元前638年、宋の襄公と楚の成王が激突した泓水の戦いは楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。 その翌年、晋の亡命公子である重耳(後の文公)は斉から宋へとやってきて、襄公の歓待を受けた。襄公はこのあと、まもなく死去する。その後で重耳は楚へと入り、ここでも成王の歓待を受けた。宴の最中に成王は「もし国に帰って晋公になることが出来たら私にどう報いてくれるでしょうか?」と問いかけた。重耳は「もし王と戦場で見えることがあったら三舎(舎は軍が一日に行軍する距離)だけ軍を引きましょう。」と応えた。これに成王の臣下である子玉は王に対して無礼だと怒り、殺してしまいましょうと成王に言ったが、成王は重耳の器を認めていたのでこれを退けた。 その後、重耳は秦の助けを借りて晋公の座に就く(以後、文公とする)。文公は狐偃・先軫らの補佐を受けて、周王室の内乱を収めるなど急速に勢威を広げていた。襄公の後を継いだ成公は晋の力を借りて楚の影響下を脱しようと、楚との盟約を反故にして晋との親善を深める。このことに不快感を抱いた成王は紀元前633年に軍を発し、陳・蔡・鄭・許らの諸侯と共に宋の首都を包囲し、宋は晋へ救援を求める。 これに応えて文公は三軍を召集し、宋の救援へと向かう。 紀元前632年、晋軍はまず楚の盟下にある曹を攻めようとし、衛の成公に領内の通過許可を求めた所、断られた。かつて放浪時代に先代の文公に侮辱を受けいていたこともあり、怒った文公は衛を攻めて五鹿と言う土地を奪った。この後で郤?が急死したので代わって先軫を中軍の将に抜擢した。 衛国内で斉の昭公と会盟し、今後のことを話し合った。晋に攻められて恐れていた成公がこれに参加したいと申し出てきたが、文公はこれを撥ね付け、成公は更に楚に和親しようとしたがこれも断られ、成公は臣下により追放され、衛は晋に降った。その後で曹を攻めて、これも降す。 この戦果を元に、先軫の進言により、「衛と曹の土地を宋に与え、その土地を斉と秦に割譲する。その上で宋から斉・秦にFX を止めるようにと楚へ言ってもらう。盟下にある衛と曹を守らねばならない楚はこれを断るに違いない。そうすれば斉・秦は楚を恨むようになるだろうし、楚の方も宋を攻めるよりも衛・曹の方へと意識が向くだろう。」という策を実行し、思い通りになった。 戦況が不利になったと見た成王は本国へと引き上げていった。しかし子玉は成王の怒りを買いながらも残留し、晋に対して「晋が衛と曹を許すなら楚も宋を許す」と申し入れてきた。晋はこれを逆手に取り、衛と曹を寛大に許してやり、衛と曹は楚とのFX を破棄し、晋に親しむようになった。 このことに怒った子玉は晋軍を攻撃する。この攻撃に対して文公はかつての約束を守って、軍を三舎退かせた。臣下はこのまま楚軍と戦うことを進言したが、文公は一旦軍を退却させた。 4月己巳の日に両軍は城濮で激突。 まず楚の右翼が晋の下軍に攻められて崩れる。その後、上軍と下軍はわざと負けた振りをして楚の左翼をおびき寄せ、中軍と挟み撃ちにしてこれを破った。 晋の大勝に終わり、FX は践土(現河南省温)と言う所に王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。この時に楚の盟下にあった鄭も晋の盟下に移った。文公は襄王からのもてなしを受け、覇者と認められた。 一方、敗れた子玉は楚へと帰還するものの成王の怒りに触れて自殺を強いられる。 この戦いにより楚の盟下から宋・曹・衛・鄭の四国が晋へと移ったことになり、更に晋と斉・秦の結びつきもいっそう強くなり、以後景公の代に荀林父の率いる晋軍が楚の荘王に敗れるまで(?の戦い)は晋の覇権が確立される。 当時、秦は商鞅の改革によって強盛を誇るようになり、戦国七雄の中でも圧倒的な強国となっていた。その力を背景に他の六国、特に国境を接する韓・魏・趙・楚へ何度も侵攻していた。 紀元前265年、秦は白起将軍を派遣し、韓の野王(現河南省沁陽県)を落とした。このことにより、韓の北方の領土である上党郡は孤立してしまった。そこで上党郡の守である馮亭は上党郡を趙へ献上しようとした。 趙の孝成王はその当時の趙の実力者である平原君と平陽君に意見を求めた。平陽君は「秦との戦争となるのは明白であり、外国為替 を拒否したほうがよい」と意見を述べ、平原君は「ひとりの血も流さず、一粒の金も捨てずに領地が得られるのに、なぜ悩むのか?早く献上を了承したほうがよい」と意見を述べた。孝成王は悩んだ末、平原君の献上を了承する方針を可とし、兵を送って上党郡を接収した。 秦の昭襄王はこれに怒り、紀元前262年、王?(おうこつ)を将軍とした遠征軍を趙に差し向け、上党を占領した。上党の人々は趙の長平に逃げ込み、王?軍はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。これに対し孝成王は老将・廉頗を総大将に任命し、防衛体制を整えさせた。 廉頗は持久戦の構えを見せ、王?も良く攻めて趙の将を幾人も討ち取ったが、戦いは長引き、2年の歳月が過ぎた。秦軍には疲れと焦りが出ていた。秦の宰相・范雎は状況を打開すべく趙の国内に間者(スパイ)を送り、「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば組しやすい」というデマを流した。 これを信用した孝成王は、藺相如の諌めを無視して廉頗を解任し、趙括を召還して総大将に任命した。趙括は趙の名将趙奢の子で、自他ともに認める兵法の大家だったが、実際には実戦経験のない机上の兵法家で、兵法書を丸暗記しているというだけの人物であった。それは父親である趙奢も見抜いており、生前妻に「王が趙括に大任を任された時には、辞退するように」と伝えていた。そのため、趙括が総大将に選ばれた時、趙奢の妻は参内し、孝成王に趙括を総大将として派遣しないようにと嘆願した。だが孝成王は趙括を総大将として派遣させることは変更しないと断った為、趙奢の妻は「では趙括が敗北しても、一族に罪が及ばないようお願いします」と懇願し、これを孝成王に約束させた。 一方、秦は趙軍の総大将の交代を知ると、白起を長平に派遣して総大将に任じ、王?を彼の副将とした。 着任した趙括は、味方が大軍であることを頼みに、数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと考え、廉頗の戦法を変更して秦の本陣に向かって突撃した。白起は退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、伏兵を用いて趙軍を分断すると、そのまま趙軍の糧道を断ってしまった。これを知った秦の昭襄王は白起に援軍を送り、兵糧が趙軍に一切届かないように計らった。その結果、趙軍には46日間も兵糧が届かず、飢えた兵士たちは互いに殺し合ってその肉を食らい、飢えをしのぐありさまであった。これに焦った趙括は手勢を率いて秦軍の囲みを破ろうとしたが、矢を射られてハリネズミのようになって戦死する。残る趙兵40万はついに降伏した。 白起は、兵糧が足りず捕虜が反乱を起こすことを恐れ、少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにした。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万に上るという。実際に、1995年5月発掘調査では大量の人骨が出土している。 秦軍は白起の功績に脅威を抱いた范雎によって一旦は進撃を止めたが、後に再び趙へ侵攻し、首都邯鄲を包囲した。この包囲戦は平原君らの活躍と魏の信陵君・楚の春申君などの協力により切り抜けることが出来たが、長平で大量の兵士を失ったことから、もはや秦に対抗することは絶望的となった。 一方、秦の白起は皮肉にもこの戦いの功績によって范雎らに妬まれる結果となり、のちに自害させられることになる。